屁の話

題名を見るなり、「まっ、下品」と思われた方は、読むのをやめてください。ただしっ!
あなたは、生まれた時から今日まで、そしてこれからも屁をひったことのない人とみなし、もし、万が一にも、あなたの屁を聞いた(音、匂い問わず)人あらば、下記「我が家における屁の罪ランク」に応じて、厳重に、その屁あんばいを検討の後、ことに寄っては処罰も受けるであろう。
そりゃあ、なんのことかいなと思ったら、最後まで読むことをお勧めします。
屁は「する」ものでなく「ひる」ものだから、伝法な語感と感じても我慢してほしい。
正しい言葉使いにこだわりたい。

ここまで読んで、「いやいや、わかってるけど言い方がね、表現が、別の言葉もあるだろうに」と思うあなた、
あれあれあの言葉、広く長く神妙に使われてきている「おなら」いうお言葉を指しているのならば、ご存じであろうか? あの言葉の語源を。
「おなら」という言葉は、日本国において、最も「やんごとなき」方々の住まうところでのみ使われていたお言葉だそうだ。
私が言うのではない。テレビで語源に造詣深い落語評論家の人が話していたのだから確かである。
我々ぐらいのやんごとなさの者が使ったら「何様!」であったお言葉が、
いつの間にか、重き尊き狭きい門の隙をくぐり抜けて逃げてきて広まちゃったお言葉なのである。(他にも、このように本来の発祥地から逃げて来て、広まちゃった言葉はたくさんあるらしい)
ところで、この「やんごとない」という言葉の意味を知っている人は多いと思うが、私は知らないので、ここに大辞泉で調べたことを記しておく。

 【やんごとない】
  [形][文]やんごとな・し[ク]《「止む事無し」が一語化したもの》
  1 家柄や身分  が非常に高い。高貴である。

  2 そのまま捨てておけない。なおざりにできない。 3 のっぴきならない…

私をはじめとして、3にあてはまらないでもない部分を持っている人も少なくはないが、敢えて無視してほしい。

よって、ここで、私は、やんごとある者の誇りを持って、「屁」を本来の「屁」という名前で声高らかに呼んでやりたい。

話はそれるが、ということはですよ…。
信じられない人も多くございましょうが、やんごとなき方々も、御「屁」をば、おひりなさるということになりましねいか。
そこのあなた、驚いたり、私を叱ったりしてはいけない。失望した方には謝る。
しかし現実とは、かくごとく思いもよらぬ時に、厳しく、また、もの悲しい形で露となるものなのだ。

やんごとなき方々もおひりなされるという屁を、やんごとある我々ごときは、時所かまわず呼吸するがごとくにひっているのであるから、この話から目を背けてはならない。
屁の話に耳をふさぐ者は、匂いに泣くのである。
もとい「屁」という一文字一言の、この潔い名前。
個性豊かな自己主張を秘め、存在感は無限大ながら実体は見えないという存在。
仏典の中で語られる「無」と同じくらいの重い響きがあっても良いのに、
これほどに軽んじられ、時に疎まれ、笑われてきた言葉があろうか。
文字界においても実社会においても、生み主からさえ無視されることもある天下一の
日陰者。「屁」に、私は、ここで光をあててあげたいと思う次第である。

さて、「屁」という言葉。これには、実はいろいろな発音の仕方がある。
古くから東京に住む人たちは「へぇ」と、たいらにわずかに伸ばす。
東北地方では「へ」と簡潔。
古くから東北地方に住む人々の中には「ふぇ」と発音する人もある。
その後に「する」「たれる」「まげる」などの動詞が続く場合は、更に「ふぇえ」と伸ばす。
「ふぇえまげだ」(屁をした)という感じである。
どんな状況にあっても、いかにさりげなく、この言葉を言ってのけられるかが、真の東北人としての品性が問われるところである。
関西や南国の発音は興味深いところであるが、寡聞にして知らない。
(大見得きったものの筆者、友達少なく情報不足)

さて、発音などはさておき好意屁そのものについて、局地的に語りたいと思う。
我が家で設は、屁のランク、それに伴う罪と罰が設けられている。
ランクとは、屁をひった人のランクではなく、飽くまでも屁そのもののランクである。
人に罪はない。にんげんだもの。
しかし、処罰が発生した場合は、屁は空気のようなものなので、ひった人に負ってもらうことにはなる。

その概要は以下の通りである。( )内は主な待遇・処罰である。
なお、【失態】とは、その屁によって非常に恥ずかしい思いをした場合、ランク外して設けた特別措置である。

【好意】  音無  匂い無   (これは、幻の屁である。私は未だにこういう屁を匂いも含め
                                     聞いたことがない)

【過失】  音有  匂いほのか  香り時間短(音に愛嬌があった場合は【失態】とみなす)
       音無  匂いほのか  香り時間短

【悪意】  音有  匂いきつめ  香り時間短(音に愛嬌があった場合は【過失】に格下)
       音無  匂いほのか  香り時間長(「屁ったれ」とそしられる)

【小悪】  音有  匂いきつめ  香り時間長(音に愛嬌があった場合は【悪意】に格下)

【中悪】  音無  匂いきつめ  香り時間短(本人がしらばっくれた場合【極悪】に昇級)

【極悪】  音有  匂いきつめ  香り時間長(退場勧告の場合あり)

【非道】  音無  匂いきつめ  香り時間長(即刻退場)
                 非道行為に加、しらばっくれたり、開き直った場合、名前の頭に
                    「屁」を付与。度合に応じて姓そのものを「屁」に改姓させられる。

上記概要に加え、音の大小に関しても細かい規定はあるが、長くなるので割愛する。
十分長くなった。

概要を一読してわかるように、音の無い場合が、罪は重いとされている。
これは、屁の持ち主だった人がそ知らぬふりをする場合が多いことと、
屁が、長い熟成状態にあった場合が多く、同じ「きつめ」でも音のある場合のきつめとは、大きな差があり、ひった本人すら自分の尻を疑うような異様な匂いを発する場合があるからである。
音に関してもそのような場合があるが、ひった本人が笑いを生じさせる人気者か、気まずさをもたらす気の毒な人になる可能性がある。
そのような理由から、音の無いほうが罪は重くなる。
「匂い」というのは多分に主観的な面を持っているが、誰もが思わず「くさっ」と叫んで
思わず手を払ったり、ひった人の腹具合を案ずる場合を「きつめ」と規定している。
ひった本人が自ら涙ぐんでいたり、その匂いで誰か倒れこんだ場合は、
【論外】とされ、即刻退場、名字を「屁」に改姓させられる。

ここまでで、我が家における「屁」の位置づけは、だいたいご了解いただけただろうか。
読んでいて、バカらしい話だと思った人は、理由無くうんこが固くなり、ミニ切れ痔になるであろう。
それほどにも、屁とは重要な存在なのである。
なにしろ、我が家には名字のみならず、親からもらった名前すらも「屁」に変えられ、
「屁皇子」(へおうじ)の称号を持つ男が時折り訪ねてくるのである。
次回は、この「屁皇子」が作る極悪非道な阿鼻叫喚の世界を交え、さらなる屁の世界を語りたいと思う。

つづく

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晴れた冬の日 2011

子どもたちの声が聞こえる。
楽しそうに笑っている。言葉は聞き取れない。
少し近く、遙か遠く、子どもたちの声が聞こえる。

雪下ろしのあった次の日は、かまくら作りにもってこいだから、
ヒロコちゃんのかまくら作りが始まる。
屋根から下ろされたたくさんの雪を上手にかため、大人の使うスコップを器用に使って、
ヒロコちゃんは驚くほど大きなかまくらを作る。
サトルちゃんもヒロボちゃんもミキちゃんもカナコちゃんも、背伸びしたり転んだり、
夢中でヒロコちゃんを手伝っている。
ちょっとしたことで、みんな笑う。ちょっとしたことで、誰かが泣く。
笑う子も泣く子も、頬を赤く染め、鼻水をすする。

その横で、ひとり黙々と雪合戦用の雪玉を作り、蓄えているのは私の兄ちゃんだ。
兄ちゃんはヒロコちゃんのことが好きだから、ヒロコちゃんの顔を見ない。
雪を深く掘って泥を出し、雪玉にぬりこめて磨き、また雪をまぶして握ることを繰り返し、
丹念に作った武器を、作りかけのかまくらの横に貯めていく。
ヒロコちゃんの弟のシンボちゃんがそれをじっと見て真似をする。
シンボちゃんの作る雪玉は、握ればすぐにボロボロと崩れてしまうから、
シンボちゃんは憧れの目で鼻水を拭くのも忘れ、「名人」の雪玉作成に見入っている。
その雪玉を使う日はいつなのかわからない。
誰かの気が向いて、みんながその気になっていきなり始まるから、
兄ちゃんは、その時に備えて雪玉を作る。
そのくせ、かまくらができあがれば、一等先にかまくらの中に入っていくのも
私の兄ちゃんだ。
みんなで中に入って座ってみても、少したてばお尻が冷たくなるから、
やがてみんな外に出てしまう。
それでもヒロコちゃんはかまくら作りが好きで作っている。
がまんできなくなるほど手も足も冷たくなって感覚がなくなるまで、子どもたちは遊ぶ。
春がくることなど忘れ、望むこともなく、永遠に、その時間は続く。

流れていった時間の先頭に立って、私は雪野原を見ている。
みんなどこへ行ってしまったのだろう。
どれだけ待てば、またみんなに会えるのだろう。

目を閉じれば、風の音にまじってきれぎれに、子どもたちの声が聞こえる。
時間の果てに置き去りにされたことがらは帰ってこない。
帰ってくるのは、残った者の胸をチクリと刺す思い出ばかりだ。

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河原にて



  地を揺るがし、黒い天の一点を目指して、ゆきいそぐ魂のように光の玉は昇る。

  悲しみか喜びか、それはわからない。

  思い残しの尾を長く引き、空気を震わせる音をたてて、

  空いっぱいに花が咲く。

  さよならの言葉も待たず花は散り、次々と別の光の玉が後を追う。

  空いっぱいの空いっぱいの、輝く花々。

  空いっぱいの空いっぱいの眩しい涙。


  受け止めようと手を広げて届かず、取り残されて、

  私は、くらい水の流れる河原に立ちつくすしかない。

  幸いはここにもあった。



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何考えているんだっ!

「何考えているんだっ! この人はっ!」

先日、週末をうちで過ごした親友M子の長男Tが、テレビで映画「ハンニバル」を見ていて発した一言である。
飛行機で逃亡をはかる人食いレクター博士が、人間の脳みそをソテーしてお弁当にしたものを、見ず知らずの女の子に食べさせるラストシーンであった。
普段無口なTが甲高いで声で発した、あまりに率直ストレート正論な言葉に、私は大笑いしながら「まさしくっ!何考えているんだっ!だ」と同意した。

Tは、小さい頃からこういう子だった。

たとえ、物語の中でのことでさえ、納得がいかないことはいかない。

外国のことなんだからとか、仕方のないことなんだからとか関係ない。

神の名のもとに自爆テロをする中東の妊産婦ことを伝えるニュースを見ていた時も、「こんなことを褒める神様なんか、神様じゃねえっ。そんな神様いらねえっ!」と、仁王立ちしてテレビに向かって吐き捨てたのを見たことがある。



その後しばらくして、深夜に何気なく見ていたテレビで、昭和
2086815分に、全員死亡した広島の女学校の生徒達の日記と、様々な人々の証言に基づいて再現されたショートドラマを放送していた。

少女たちが建物疎開に学徒動員され、校庭に集合して点呼を受け、作業にかかる直前に、原爆が投下された。

前髪をあげて、おさげ髪の頭に白い鉢巻きをした223人の女子生徒全員が死亡したという。


後に二人の女子生徒の日記帳が発見された。

粗末な紙でできた日記帳に、毎日欠かすことなく書かれた日記の文字は、幼くも丁寧だった。
食物も衣類も何もかも、本当に何もかもが不便で不自由な戦時下においても、少女たちは、明るく勤勉だった。

戦死した親しい知人や兄や父の訃報に接しても、自分たちのやるべきことをはっきりと自覚し、自分のことよりも家族や友人を心配しながら、前向きに生きていた。

番組の制作者は、女子生徒たちの短い一生を知る家族や関係者の話をもとに、少女たちが、年頃の少女らしく、強制された髪型の似合い具合を気にしたり、川の向こう側を歩く同じ年頃の少年と手旗信号で可愛いやりとりをするという想像的なシーンもショートドラマに盛り込んでいた。

短い人生の中、こんなことがあってもよかったではないかという願いが、そのシーンの中にはあった。私も願う。

空襲警報の鳴る毎日、いつ終わるとも知れない戦争のさなかにも、彼女たちは、明日がくることを疑わず、明日を今日よりも、より良く楽しく生きようとしていたのだ。

その思いは、素直に美しい言葉で、昭和208月6日の朝まで綴られていた。

テレビの画面には、原爆投下後に少女たちを必死に探しまわった家族が、焼け跡から発見した少女たちの遺品も映された。

無惨に焼け破れ、残酷な形に焼け残る衣服、焦げてひしゃげた幼気な持ち物…。

恥ずかしくも、私は画面から目を外せずにはいられなかった。

次の日、私は、同じテレビの画面の中で「核兵器を持つことこそが平和を守ること!」と叫ぶ、どこかの誰かの姿を見ることになった。

どこの誰だか、知っている人はよく知っている人らしいが、私は知らなかった。

十分に、人生を楽しく生きてきたであろう大人の男が、マイクを握りしめ、大衆を前に確信に満ちて、得意げにさえ見える顔で「核兵器を使われた世界で唯一の我が国こそがっ、核兵器を持つ意味があるのです。それが世界平和への道になるっ!」と言い切る姿は、悪い冗談のドラマの中の架空の変人にしか見えなかった。
しかし、彼は、私がテレビで見た広島の女学生の日記と同様、実在し、しかも現在を生きている日本人であると知って、私は驚き、そして思わず「何考えてるんだっ! この人はっ!」と叫んだ。

人食いレクター博士より、何考えているのかわからない人物がそこにいた。

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岬にて 2

硬い石に耳をつけて、あなたは何の音を聞いていただろうか。

あなたが耳をつけていたその石は、何でできていたのだろうか。

冷たく練られたコンクリートだっただろうか。

それとも、たくさんの不思議な名前をもった鉱物の塊だっただろうか。

静かに目を閉じて。

あなたは、それら様々の鉱物が語る不思議な昔話を聞いていたのだろうか。

それとも、いつか見た美しい海の波の音を聞いていただろうか。

そこには、あなたが好きだった香りが満ちていただろうか。

静かに閉じられた、あなたのまな裏には、何が見えていたのだろう。

あなたが好きだった色があふれていただろうか。

あなたが愛し、あなたを愛した人々の笑顔が見えただろうか。

あなたが好きな花の咲く泉のほとりは、見えただろうか。

硬い石に耳をつけて、まだ明けきらぬ朝の青闇のなか

扉が閉まるその刹那、あなたは笑っていたと、

私は 信じたい。

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岬にて

岬へ出るのが好きだ。

名のある大きな岬もいいが、ただ海沿いに突き出た突端の一番高い所、そんな岬をめぐるのは面白い。

浜辺から、適当な道をみつけて登り出す。道は必ずある。

遊歩道になっているような場所もあるが、釣り人や地元の人や酔狂な私が行くような細い道もある。岬へ至る道は、山と同様、結構な登りもあるし、下りもある。

森林地帯もあれば、ひらけた花畑のような場所も、藪もある。

また、岬へ至る道では、山育ちには珍しい樹木や草花を見かける。

草木はみな一方向に傾いて生えている。

波の音が遠くに近くに聞くことを繰り返しながら、そんな道を歩く。

藪道を歩いていて、ふと波の音が大きく聞こえたと思うと、ふいに崖に出ることがある。

しかし、崖の腹を巻くように、岩の道がある。

波が岩を打つ音を聞きながら、岩を選んで慎重に歩く。

そんな岩道で、濡れた跡や水たまりがあったら、それは満潮時にはそこまで水が来るということだ。

そんな場所には満潮の名残の水たまりがあり、取り残された小さな魚や妙ちきりんな形の生き物が、次の満潮を待っている。

時間のある時は、そんな生き物たちを少しいじめる。

崖道からまた、草つきの道に登ったり、下ったりしているうちに、もうどこへも続く道のない場所に出る。岬だ。

そこは、比較的広い、ほこほこと草の茂る場所であったり、狭くて少しばかりの石座敷であったりする。

ごつい岩が海へ向かって細くつきだしていて、先端まではいけないような場所であることもある。

とにかく目の前に、まったいらに広がる海が見えると、「私のうみー!」といばりたくなる。

点在する大小様々の、不思議な形をした岩が間近に見える。

座れる場所があれば座って、座れなければ立ったまま、ただ見えるものを見ている。

静かだ。

空が抜けるように青い天気のいい日は、色んな青色のだんだらが、沖まで続いている。

遙か水平線の近くを大きなタンカーが行くのが見える。

その手前のあたりをどこの船籍なのかわからない船が行く。

私の立つ岬からほどない距離のあたりを奇抜な色をした遊覧船が行く。

水の上を移動して歩く虫のようだ。

岩を打つ波の音と草木を揺らす風の音しかしないのに、妙に賑やかだ。

眼下の大小の岩にぶつかる波の周辺の水は、ミルクを混ぜような青緑色。

私の好きな青色のひとつだ。

真っ青な空の日もいいが、羽衣のように薄い霞のかかった空の日もいい。

地平線と海との境がわからなくなるような青の彼方に、昔望んだ未来がある。

ような気がする。

そして、腰掛けているこの岬のはじっこが私の過去の先頭だ。

ずいぶん遠くまで来たような錯覚を楽しみながら、私はひとりでごきげんだ。

波が、さっきまで届かなかった岩まで波頭を延ばし始める頃、私はフナムシなどに追われて岬を後にする。

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天晴れ!

謹賀新年と書いてから、もう5ヶ月が経とうとしている。

我が家の近くを流れる石神井川沿いに咲く桜も開花が早く、満開が遅かったので、長く花を楽しむことができた。

3月から今日まで、嬉しい報せと悲しい報せが、雪解け水のようにどうどうと押し寄せてきた。

何よりも嬉しい報せは、友人たちの子供達がそれぞれの学校を無事卒業、進学、就職を決めていったことである。

中でも、親友M子の長男Tが大学卒業、東京消防庁に入庁し、救急救命士の国家試験に合格したことは特別に嬉しかった。

中学校の頃から、Tは、父親の転勤に伴い何度か転校を余儀なくされた。

「家族はいつかバラバラになる。それまでは一緒に動こう」というM子の信念に、子供たちは素直に従った。

Tにとっては、高校受験をするのに、とても不利な時期の転校もあった。

しかし、彼は、淡々と自分のやるべきことをやった。

転校すれば、制服も体育用のジャージも変わる。

あと数ヶ月の登校でも、みんなと同じものを着ていないと、ばかにされたり、仲間外れにされるのではないかと心配し、転校先の制服とジャージを揃えてやろうとした母親に、Tは、言った。

「人と違うことより、違うことを笑うことこそ、かっこ悪いんだよ、お母さん」

天晴れ! T

彼は、その頃すでに「救急救命士になりたい」と決めていた。

大学も、その道へ進むにふさわしい大学を選び、初めて親元を離れた。

Tは、自分の努力を人に見せず語らず、グイグイと自分の夢をたぐり寄せていた。

彼自身が努力をしなければならない膨大な事柄の困難さ、またその職業の特性に伴う危険性などをM子はよく理解していた。

しかし、彼女は、笑っていた。手のひらに爪がくいこむほど拳を握りしめて、バカな冗談を言い、ただ遠くから、祈るように息子を見守っていた。

そんな時のM子は、私が寂しくなるほど、「人の親」である。

天晴れ! M子!

そして、この春には、やはり「人の親」であった幼なじみのY子が、6年間の闘病の末に亡くなった。

反抗期にあった二人の子供と、すさまじい喧嘩をし、時には殴り、罵り、叫び、泣きながら、彼女は「病気でか弱い母」ではなく「強い母」として君臨した。

彼女の病気の深刻さを、子供達は理解できていなかった。

「死ねよ」と軽く言う長男に、彼女は「おまえが20歳になるまで生きていてやるっ!」と言い返したという。

Y子は母親として伝えたいことのすべてを、絵に残した。

家族が寝静まった夜中のキッチンで、あるいは病室で、彼女は絵を描き続けた。

子供達が、母親の病気の深刻さを理解し、心を寄せ始めた頃、

「命は天に任せました。でも、もう少し生きたいです」というメールが私に届いた。

その数週間後、東京の桜が満開の頃。

それは、Y子の長男の20歳の誕生日の次の日。

彼女はコトリと逝ってしまった。

天晴れ! 天晴れ Y子!

東京の桜は満開だったが、故郷はまだ春浅く、雪をたっぷりと抱く鳥海山が白霞の空の中で、より白く、神のごとく輝いていた。

涙声でY子の最期を報せてくれた幼なじみは、長年勤めていた会社を突然辞めることになり、再就職が決まったばかりだった。

「おれが、再就職決まったよ、会いに行くよって言ったら、Y子、喜んでくれてね。あれだけ『会いに来てよ』って言ってたのに、『来なくていいよ。大丈夫。私、がんばるから、元気になるっ。元気になったら会おう』って言ったんだよ。やっぱり、会いに行けばよかったよ」「会いに行けばよかった…」そう繰り返す彼に、私は言った。

Y子は、この世で美しいどこよりも美しい所へ、一足お先に行っただけだよ。また会えるよ」

いつだったか、そう私に教えてくれたのは、M子だった。

「そうだな。子供達が育ったら、いつか、おれたちみんなそこへ行くんだよな。そしたら、またY子と飲めるな」彼は静かに言った。

どう思おうと、何を信じようと、親しい人が逝ってしまう悲しみは変わらない。

けれども、親となった人たちは、自分の喜怒哀楽の他に「子供への心配」というものを一生持ち続けて生きていくのだという。

同じ年に産まれ、同じように年とっていく友人達が時折のぞかせる「親」の顔を見る時、いつでも、私は、少し寂しく、とても心強い。

天晴れ! 天晴れ! 人の親になった、朋輩衆!

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謹賀新年

みなさま、あけましておめでとうございます。
喪中にあるみなさま方も、今年はどうぞ良いお年でありますように。

いつも、お目汚しのブログを読んでくださってありがとうございます。

私が帰郷した日から故郷湯沢の天気は大荒れ「嵐を運んできた」との声を各方面から頂戴いたしております。(「夏には暑さを運んできた)と必ず言われます)
このように、何かと行く先々に迷惑をもたらす私ですが、どうぞ、許してくださいませ。

世の中は、経済を中心に不穏で、耳をふさぎたくなるようなニュースばかりが流れます。
こんな時代だからこそ、笑うが勝ち。生きるがかち。
泣いてどうにもならぬことは笑うしかない。
そう、こんな時代こそ私たちのような(「私たち」って誰よ?と思ったあなた、あなたです)の出番です。
このMHKの庭でどんじゃらほいと、一時でも現実を忘れたり辛さを笑ったりしていきたいものと思っております。

昨年の大晦日(って昨日のさっきだけど)、紅白歌合戦の途中で私はお風呂に入り、あがってみると、老父母と犬が河岸のマグロのように、それぞれの場所で「着どころ寝」をいたしておりました。
テレビの中では、きらびやかな珍しい衣装を着た歌手が、私の知らない歌や少し知っている歌を歌っていました。
髪を乾かしながら、部屋の様子を見ていますと、なんとのう幸せな気分に涙しそうになりました。これこそが、私が望んでやまなかった大晦日の図であったと思ったからです。
誰も喧嘩せず、年をまたぐ不安はなく、のんきに寝ている父母。
私は果報者と思えます。

昨年も、その前も、朋輩衆や親友、みなみな様に支えていただいて、このMHKの庭で遊ばせていただいておりますことも果報と言えます。

みなさまが健康で幸せでありますように。
そしてどうぞ、これからもよろしくお願いいたします。

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七兵衛の手鞠唄

10月初旬、用事があって帰省した私は、去年に引き続きハンドボールマスターズ東北大会を観戦する機会に恵まれた。会場が、地元湯沢だったのである。
地元開催のせいか湯沢クラブの選手は20人を越えた。
他の県から来ているチームは、それぞれがお揃いのユニフォームをビシっと決めているのだが、湯沢クラブは人数が多すぎてユニフォームが足りないため、おおよその色を揃えたTシャツの上に、チョッキ式のゼッケンをかぶるという形にしたようだ。これが「ちょっといい家の子」みたいな雰囲気を醸し出していて笑えた。

ところで、この「ゼッケン」という言葉。もう古語だということを皆さん知っていましたか?
今回、私は母と我らが本べの愛娘とともに試合観戦に行ったのだが、その際、私が「本べは何番のゼッケンつけるの?」と訊いたところ、本べの愛娘、「ゼッケンって…ぎゃはははは!ふっる~い!」と大爆笑。我が母も本べも私もキョトンとしていると、愛娘の言うには、今や「ゼッケン」などと言わないのだそうだ。では、なんと呼ぶのか?昭和生まれ3人の問いに、平成生まれの13歳の愛娘は答えた。
「ナンバリング」

みなさん、ナンバリングとえば、あれ、伝票や原稿等にぺったんぺったんする、
あのゴム判のことだと思うでしょ?そうですよねっ。
と、力説しても、今、ナウなスポーツ界においては、ナンバリングとはゼッケンのことなんだそうです。
で、そのナンバリング、湯沢クラブの人々は、大きな袋に入った「ナンバリング」をてんでに出して手にした物を適当にかぶるので、試合のたびにつけている番号が違う。なんと、裏表逆に(湯沢語で「かっちゃま」)につけたまま試合に出ている人もいて、私の母は笑い死にそうになっていた。

二階のギャラリー席からでは本べの頭頂部が移動していく様しか見られないじゃないかと、私の母が我が儘を言い始めた時、昨年も福島でお世話になった市役所職員のイケメンハンドボーラーDくん(彼は39歳以下なので今回は出場せずに裏方をやっていた)が椅子を用意してくださり、コートの間近で観戦することができた。
「さあ、どうぞ」と椅子を組み立てて老人をいたわる笑顔。
Dくん、あなたは、加齢臭立ちこめるこの体育館の中を吹き抜ける一陣の爽やかな風である。
優しい・イケメン・スポーツマン。稀な人材である。湯沢市役所の未来は明るい。

早くから会場に来ていた本べファンのNちゃんとも会い、椅子を並べて一緒に観戦することになった。
試合前、私たちが「あの人は、絶対まだマスターじゃないよね」とか「あの人、マスターにもほどがあるよね」「いや、頭髪で決めてはならない」などとマンウォッチングをしていると、次に湯沢クラブとの試合を控えたチームが、たまたま私たちのすぐ側に円陣を組んで座り、作戦会議をしていた。
彼らのうちの一人が「湯沢クラブの本べさん、あの人は絶対止めないと。走らせたらだめだ。動けなくしておかないと…」と、実名を使って話しているのを、本べの愛娘が聞きつけた。
「大変。お父さんがやられちゃう。お父さんが…」まるで父親が殺されかねないような恐がりぶりで私に訴える。
「大丈夫だよお。そんなのお父さんは慣れっこだよ。試合だもん」と言うと、「うん」と言って下を向いていた。
彼女の頭の中ではどんな光景が浮かんでいたのだろうか、試合時間が近づくと、「あたし、お父さんに伝えてくるっ」と言って、コートの反対側にいる父親目指して駆けて行った。
ついこの前までリカちゃん人形みたいな格好をして父親の腕にぶら下がっていた甘えっ子が、すっかり少女になって、「父の危機」を伝えるために少年駅伝夫のように体育館を健気に駆け抜けて行く。
駆け寄ってくる愛娘の姿を目にとめた本べが、娘が両拳を握りながら必死に「父の危機」を伝えるのを、首からタオルを半端にたらし、短パンの裾から手を入れてケツをかきながら聞いているのが遠くから見えた。
走り戻ってきた愛娘に「お父さん何て言ってた?」と訊くと「『ふんっ』って鼻で笑ってた」とションボリ答えた。
「鼻で笑うぐらいのことを見せてくれるよ、きっと」と励ましたが、愛娘、ほとんど半泣きである。
本べに告ぐ。この父思いの愛娘が嫁に行く日には…ああ、そうさ、その日はあっという間やってくるよ…その日の朝には、花嫁の父、本べよ、この日のことを思い出して鼻汁たらして泣くがよい。数少ない頭髪も、涙とともにハラリハラリと散るだろう。

そして試合開始。
相手チームは本べに4人のマークをつけた。とても背の高い人たちなので、本べの姿はほとんど見えない。
「お父さんから、離れてよっ!」「お父さんをひっぱらないでっ!」「お父さんをかっちゃぐなっ!」愛娘、椅子から立ち上がって猛抗議。
しかし、そうやっている間に湯沢クラブの点数は増えていく。
「あ…お父さんはオトリなのか」愛娘は気づいた。
「それだけ相手はお父さんが強いって、警戒しているんだね」と私の母が言うと、「お父さん、かっこいいー!がんばれええっ!」愛娘の応援は悲痛な抗議から明るい力強いものに変わった。
「んだんだ、娘さ、えどご見せれよお、つぁー!!」という、私の母の恥ずかしい声も響く。
その声が聞こえたのか、どうか、本べは「オトリは、もう飽きたむんっ」という感じで、つるり、ぬめりと、ボールに絡みはじめた。
ボールが手に渡るとゼッケン否ナンバリング不定・牛若丸と化して、巧みなパスを繰り出し、またパスを受け、「んがだあああ、よげれえええいっ!よげねば、おがすどおおっ!」「ずでべっっち!」という声が聞こえるかのような猛突進である。
本べの八艘(実は八寸)跳びゴール等の写真が、「秋田ハンドボール応援」というHPの写真でアップされていますので、興味のある方は見てください。
http://akitahand.lets-sports.net/id/photos.html?datan=44&url=../photo/08t_masters/IMG_2yu&title

本べのことなんかはこのくらいにして、実は、私の魂にシャウトするような選手を私は今大会で発見した。名前は知らない。出身地とナンバリングをもとに、仮に七兵衛としておこう。調べによると齢67歳の出場最年長者。身長は180㎝近く、総白髪。特徴は全部違う動きをする四肢。
この人はすごかった。私のツボにはまった。
彼はプレイをしながらにしてチームの司令塔である。すごくわかりやすく指令を出すので彼のチームの選手は指令とは違う動きをする。
これは、ある意味、ものすごい目くらまし作戦とも言えるのではないか。
そして七兵衛の秘密兵器、バックパス。敵に囲まれた時に繰り出されるこの技は目を疑うほどの速さと巧みさでマギー司郎も脱帽である。
ただし、パスした相手が味方チームの人間でないことが圧倒的に多い。
七兵衛から難なくボールを渡されてしまった敵選手が「いいんですか?」と訊いたりしている。
すごいぞ、七兵衛!彼の視界は270度。馬がそうであるように死角は真後ろだけだったに違いない。そして死角を補う第三の目を、彼は背中に持っていたのだろう。
寄る年波、第三の目が少々老眼気味になったとて、誰が七兵衛を責められよう。
相手をうろたえさせる。これも七兵衛の老獪な技かもしれぬではないか。

そして、ついにその時は来た!
司令塔として、チームのフォローに回っていた七兵衛の手に、ノーマークの状態でボールが渡ったのである。七兵衛、今試合初の速攻だっ!ドリブルだっ!響け七兵衛の手鞠唄よ。誰も寝てはならぬ。
七兵衛は、でーんでーんでーんとドリブルをしながら、ゴール目指して走り出した。味方の選手2人ほどが後にフォローに続いて走る。敵方も数人追う。
でーんでーんでーん…自分でドリブルしながら、逃げるボールを左右に追いかけるハメになる七兵衛。
はっきり言う。私も鞠つきはかなり下手だったが、七兵衛、あなたも鞠つきは得意ではないようだ。
それでも、誰にも追いつかれることなく七兵衛はゴール前まで辿りついた、いや突進した。大きく腕を広げて待つゴールキーパー。
もはや、敵も味方も、身じろぎせず、その一対一の闘いに見入っている。
七兵衛、数歩の助走とともに大きく腕を振りかぶり、往年のジャンプシュートッ!七兵衛ボンバーッ!を鮮やかに…
決めるはずが、七兵衛は助走の段階で足を絡ませ、前のめりにバタリと、こけてしまった。とたん、キーパーも敵も味方も全員がドリフのコントのようにこけた。
ボールは七兵衛手を離れ、コロコロとあらぬ方向へ。七兵衛護衛隊の一人が、こけたままの態勢でそのボールをゴールの方角へ転がし返した。
ボールはこけているキーパーの横をコロコロと転げ抜け、網を揺らした。
ナイッシュート!これとて七兵衛の計算尽くの妙技と言えなくもない。

マスターズ戦は本当に面白い。
年齢を重ねても、身体で覚えたことは忘れないと誰もが言う。
その身体が思うように動かなくなっても、間合いや癖は変わらない。それをみなさん楽しんでいらっしゃるように見える。比較的、まだ若い方々も、比較的高齢の方への敬意は忘れず、しかし、真面目に勝つことを目指し汗を飛ばす。
無心の汗と笑いが満ちる時間。
この大会を心地よくするために、裏方に徹して椅子を運んだり素晴らしい写真を撮ってくださる方達にも頭が下がる。
社会のしがらみや日常の煩雑さや、年ごとに増す不安、そんなものはコートの外に捨て置いて、一個のボールを追う時間。

「遊びをせんとや生まれけむ」
そうとはいかない人生の中に、こんな時間があることは、なんて素晴らしいことだろう。

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仰げば尊し

ここ数年、残暑の厳しい夏が続いたが、今年はなんとなくそうでもないようだ。
が、油断は禁物。いつ、あの暑さがぶり返すかと怯えながら暮らしている。

今年の夏は、何年ぶりかで妹と一緒に車で帰省した。10日の深夜に練馬にある我が家を出発した。
東北道は空いていた。
仕事の後だったせいもあるだろうが、いつもは元気に運転する妹が運転中に手首をふったり、あくびをしたり、いつもより多く休憩もとり、とても疲れた様子だった。。
「いつでも運転かわりますよ」と言うと、急に背筋を伸ばして「無問題!大丈夫です」とシャッキリする。
長距離運転で疲れた時、私の「いつでも運転代わりますよ」は、刺激性ミントガムやマカドリンクよりも効果的かもしれない。

お盆の3日間は、ヒジョーに暑かった。湯沢は空気が綺麗なせいか、陽射しがキツイ。
Tシャツを着てお墓を掃除していたにもかかわらず、背中が日焼けして痛かったほどである。
私の顔のシミは、出てるものはもとより、今まで隠れていたものまで色濃くその存在を露わにした。
肩や手の甲の老人斑まで…。あぶりだしとは、まさしくこのことかと妙に納得した。
年を重ねると、目から鱗が落ちるように納得することが多くなるものだ。
お盆行事や親戚との会食を済まして妹も夫もそれぞれ先に上京した。

そして、16日には、恒例の3B同級会に参加した。
参加者は10人。(3BHPのよっくんパパの写真参照)
毎年、忙しい中で会を企画し、連絡をくださる地元の幹事さんや、よほどのことがない限り必ず参加してくださる担任の遠藤先生には頭が下がる。
この方々の御尽力がなければ、夏の帰省は、「お盆の帰省」という、慌ただしくて、疲れて終わってしまうものになる。
そして、担任の遠藤先生のいつまでも変わらぬ若さと優しさ、一言で言ってしまえばありきたりな言葉だが、その姿を拝見するたびに、良い年の重ね方をされている素晴らしさというものを、感じないでいられない。
先生を知っている人ならば、誰もが同じことを感じているだろう。
先生の教師としての御人徳、人間としての素晴らしさを書くなら、誰だって書くことができるだろう。
だから、私は、遠藤先生との忘れがたい個人的な思い出を(むふふふ)書こうと思う。

あれは、高校3年生の10月頃だったと思う。
世界史ではない別の授業中に、遠藤先生に呼ばれて廊下に出た。
「お父さんが怪我をされたそうなので、すぐ中央病院に行きなさい」と静かに先生は言った。
父は、刃物を使う職人なので、怪我などいつものことだ。なぜ病院まで?と思った。
そんな私の疑問を察したのか、「仕事場の階段から落ちられたのだそうだ」と先生は言った。
何かを読み取ろうと先生の顔を見たが、先生は笑っていなかった。でも慌ててもいなかった。
タクシーを呼んであるから、帰り支度をして職員用の玄関に来なさいと言われ、私の心の中の不安が急速にふくらんだ。
父の仕事場の階段とは、単なるハシゴである。そして仕事場には色々な機械が置いてある。
その上にストンと落ちたら串刺しになるような物もある。

先生は教室から玄関までの廊下を一緒に歩いてくれた。
「先生、父さん、死んだんじゃないですか?」と、私は思いきって訊いた。
先生は立ち止まり、まっすぐに私の顔を見ると、
「詳しくは私にもわからないんだ。とにかく行きなさい。大丈夫。何かあったら先生も行くから」
私の肩に手を置いて、そう言った。根拠のない慰めはしない先生。
肩に置かれた手の温かさが私を励ましているのがわかった。
職員用玄関にタクシーが待っていた。
それに乗り込み窓を全開にして「行ってきます」と言うと、先生は窓をのぞき込むようにして私の顔を見て、無言でうなずいた。先生を知っている人なら誰もが知っている、あの力強く優しい顔で。
行き先を告げないのにタクシーは発車した。
急に心細くなり、後ろを振り返ると、先生はまだ玄関口に立っていて私を見ていてくれた。
先生は、まだ私の顔を見ていてくれていることがわかった。
あの時の心強さと先生の顔は、いつまでも忘れられない。そしてこれからも忘れないだろうと思う。

ちなみに、どうでもよいことであるが、私の愚父は、ケチくさい怪我をしただけだった。
仕事場の二階へ昇るのに、両手に物を持ってハシゴを昇り、古いハシゴがズレて、ハシゴごと落下したのだ。運悪く、電動糸のこぎりに胸をしたたかに打ったのと、手首を骨折したのが主な怪我。
「肺にあばら骨が刺さってるっ。穴があいてる肺に穴があいてる…」と父は騒いでいたが、折れた肋骨が肺に刺さっていたら、声なぞ出ないだろうことは、高校生の私にだってわかる。
単に打撲のショックで呼吸がしずらくなっているのだった。
妹も呼ばれていた。妹の友達も一緒に来てくれていて二人して涙ぐんでいた。かわいそうに。
最初、父の仕事場で働いていた職人さんが母に連絡をしたが、母が留守だったので、父の「たっての希望」で私と妹を学校から呼んだらしい。理由は、「着替えがほしいから」
手首の骨折は翌日手術をすると医者に言われたが、父の従兄の整体師が、夜中にこっそりと父の病室を訪れ、サクッと骨折箇所を整えて帰って行った。
次の日、レントゲンを見た医者が「あれえ、ついてますね。手術はしなくてもこのまま固定してれば大丈夫ですね」と、手術もしないで済んだ。

このことを思い出すたびに、先生にもどんなに心配をかけてしまったかと恥ずかしくなる。
それに、あの時のタクシー代を先生にお返ししていないことを思い出す。
そしてお会いした時には忘れている。今年も忘れた。
先生、ごめんなさい。

ここ何度か、クラスの集まりがあると、クラスでただ一人の下戸である私が、先生を車で御自宅までお送りすることがある。ある意味、恩を仇で返すとはこのことであろう。
この恐ろしい帰宅車中でも、先生は明るく私を励ます。お酒の勢いか開き直りか。
「おお、上手だね。今のカーブは上手だったね。ずいぶん上達したんだねえ」とか。
判断ミスで急ブレーキを踏んでしまうと「うんうんいいよっ。慣性の法則を体感できたね」とか。
私が、岩崎橋にかかる途中の合流地点にかかる道の真ん中にあるポール(通称ぼっこ)が嫌いだと言うと、たいていの人たちは「あんなもの気にして怖がるなら運転なんかするなっ」と言う。
しかし、先生は「そうだねえ、このぼっこは、私も好きではないなっ」と強く同意してくれながら、窓の上部にあるハンドルを両手でギッチリつかんでいる。
無事御自宅に着くと「また会おうなっ。ありがとう」とぎゅっと両手で握手してくれる。
その握手の強さには「助かったぁ。無事に着いたぞお」という先生の喜びと安堵感、そして私への愛情を強く感じる。
そして私が帰る時、やはり先生は、ずっと御自宅の前に立って見送ってくれている。
あの時のように、顔が見えなくなるまで、車が角を曲がるまで。
「前を見て運転しなさい」という押し殺した声まで聞こえるようだ。

今年の同級会の帰りは、よっくんPの奥さんが、よっくんをP迎えに来て、その車で先生を送ってくださった。
みんなが、先生を引き留め、「れっさがお送りしますから。と口々に言った」
先生は立ち上がりかけた私の顔を見て「悪いな、んと、あのな先生な、んと、●&ψж∋∞で、もう帰らないといけないんだ」とおっしゃった。
すごく残念そうに口をひきしめてはいたが、目をそらした。
いつもは、一人一人と握手をして帰られるのに、今年は「じゃっ!」と晴れやかに去っていかれた。

先生、いつも、私たちを見守ってくださってありがとうございます。
あ、それからタクシー代、今度こそお返しします。
運転に精進し、立派な獣ドライバーとなって、来年こそは、私めがお送りいたします!

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